竹山の「講坐像」、宴席での書画競作で藍江が筆振るう
寛政10年(1798)正月16日、初講(新年の講義始め)日に懐徳堂四代学主・竹山は講義をしました。その後の宴が盛り上がったところで、出席者で書画の競作をすることになり、竹山の弟子で佐倉藩儒の渋井子要(小室)が藍江に竹山の「講坐像」を描かせました。それに賛を求められた竹山は酔いつつも「皋比坐断四十餘年、浅陋之学豈究天人、微力閑道襄斥異言、愚者一得竢聖不愆[教師の席に坐ること四十余年、私の浅く狭い学ではどうして天意も人意も究められようか。わずかに脇道で異言を退ける程度のことしかできない。そのような愚者ではあるが(愚者も千慮に一得ありというように)一つくらいは得るところもあるだろうし、やがて誤りのない聖なることが明らかになるときを待ちたい]」と賛を書しました・・・以上は、竹山の詩文集『奠陰集〔てんいんしゅう〕』に記される本作制作の顛末です。このとき、竹山は69歳でした。
それが証拠に本作のコピーを求める人は多かったようで、竹山賛・藍江画による副本を儒者で頼山陽の父の頼春水〔らいしゅんすい〕が入手したことが分かっているのをはじめ、類品が大阪城天守閣本など複数知られます。なかには竹山の弟で絵も巧みであった履軒〔りけん〕が描いた像の写しに竹山が賛したもの(個人蔵)があるほどです。
義家が伏兵を察した逸話は、英断ではなく謙虚さを讃える
画面中央に甲冑〔かっちゅう〕姿で黒駒に乗り弓を持つ武者【図3は図2の一部拡大】とそのかたわらに長刀を持って立つ従者がおり、武者は画面左上方の雁の群れに視線を向けます。その様子、兜の前立に龍が付いていることから、本作は平安時代の武将・源義家〔みなもとのよしいえ〕が後三年の役において、現在の横手市西沼辺りで通常は列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいたために、清原群の伏兵があることを察したという逸話(『古今著聞集』など)を描いていると分かります。この逸話は、義家の英断を褒めるのではなく、義家が碩学の大江匡房〔おおえのまさふさ〕に師事しており、彼から教わった孫子の兵法によって難を避けたために功を匡房のものとした、その謙虚さを讃えるものです。
画面右上には竹山の第四子で懐徳堂預り人(学主とともに学務・校務の最高責任者)となった蕉園〔しょうえん〕(1767~1803)の、寛政11年(1799)の賛があります。前半は逸話を述べ、後半では、識者の言葉に耳を傾けず、学問を疎かにし、何事も自分の手柄と誇る者がいる、ことを嘆いています。雁の左上に寄せて描かれる構図によれば、当初から賛が予定されて絵が描かれたと判断できます。また、藍江と懐徳堂の関係を思えば、義家を描くことは蕉園のプロデュースであり、制作目的は、賛の後半に記された学問をないがしろにする世情への批判を中世の武将の姿を通じて視覚的に示すことだったか、と考えられます。
一見、墨のみで描かれているように見えるかもしれませんが、墨の階調を丁寧に調整して陰影をつけ、顔には薄く肌色、唇には赤色、兜や鎧の一部に金泥を塗った細やかな描写をしています。そうした表現は、当時の鑑賞者にとって義家の逸話が過去の遠い物語であることを反映するかのようですが、同時に時空を超えた逸話への親しみを演出する効果もあり、藍江の画技がひかります。
他にも藍江と中井家の人々との合作として、幕府に献上した白雉を描く中井柚園賛・中井藍江筆「白雉図」(豊中市蔵 https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/shitei_bunkazai/yuukei/paintings/sirokijizu.html)などが知られます。
中井藍江の画業は、懐徳堂の文化を支え、また一方で懐徳堂の人々のとの文雅の交わりに支えられたものであったと言えるでしょう。