蘭洲を「先生」と呼び、影響受けた形跡
『雨月物語』の作者として知られる上田秋成(1734-1809)は、4歳の時、大坂堂島の紙油商嶋屋(上田茂助)の養子となった。確証はないが、懐徳堂に学んだ可能性が高い。五井蘭洲のことを「先生」と呼んでいるし、蘭洲の『伊勢物語』研究(『勢語通』)に影響を受けた形跡もある。中井竹山や履軒と世代が近く交友があった。秋成の懐徳堂観は、彼の最晩年に書かれた随筆『胆大小心録』に伺うことができる。この随筆は歯に衣着せぬ辛口評が特徴だが、懐徳堂に対しても例外ではない。
当時「大坂の学校」と言われていた懐徳堂に対し、「思い上がった言い方で、郷校でも言い過ぎ、校舎というくらいがちょうどいい」とか「学問所というより獄門所」だとか、言いたい放題。しかし、初代堂主の三宅石庵のことは、「王陽明の風な学士じやが、篤実でしんせつ」と人柄を評価し、俳諧も芭蕉などという偽物が追随できる事ではないと、えらい褒めようである(ちなみに秋成は芭蕉ぎらい)。秋成が師事したと考えられる五井蘭洲に対しては「よい儒者」だと褒めながら、『続落くぼ物語』という物語を作って失敗したと揚げ足取りのような悪口。そして秋成と同世代で、懐徳堂の全盛期を作った中井兄弟のことは、こき下ろしている。
中井兄弟にも厳しい批評
中井竹山は懐徳堂の経営を担い見事にこなしたやり手だが、秋成から見るとそれが気に食わない。そこでこういう。「竹山は山こかし(山師)と人がいう。山は転ばなかったが転ばしたがった人だ」と。また松平定信に政治について見解を求められ斬髪で臨んだ後、ふと秋成の許に現れたので「変わった髪型だなあ」と冷やかすと「これこれの事があって」というので、「髪剃らずに道理を言われぬか」と毒づいたら、返答はなかった。その後、秋成のところに来たことはない、これでこの人物の値打ちもわかるだろうと。
弟の履軒に対しても、「兄と違って大器のように言われるが、これも芭蕉と同じで偽物だ」と貶めている。履軒とは幽霊を信じるか否かで対立した。山片蟠桃の『夢ノ代』が有名なように、懐徳堂の学問は無鬼論の立場である。それに対して秋成は怪異を信じる。履軒は「あんたはホンマに文盲な奴やな。幽霊だの狐つきだのいうのは皆神経症なんや」と秋成を一蹴した。秋成は辱められたことを根に持っていたようだが、紙面でやり返した。「履軒は〈学校のふところ親父〉だ。門から出たこともなく、狐が人を騙すことはないと言い切ってしまうのは、笑っちゃう」。〈学校のふところ親父〉というのは「ふところ子」(箱入り息子)のもじりで、なおかつ「ふところ」に懐徳堂の「懐」がかけられている。かなり馬鹿にした言い方だ。
と、こう書いてくれば履軒と秋成は相容れない仲だったのかと思われるだろう。しかし、どうもそうではなさそうだ。というのは、両人が鶉の画に和歌と漢詩で賛を着けたコラボ作品が存在するからだ。懐徳堂記念会が所蔵する中井履軒・上田秋成合賛「鶉図」がそれだ。鶉(うずら)の画者は不明。
引っ越し魔で、歌でも鶉に自ら重ね
この画の収められた杉の木箱の蓋裏に箱書を書いた履軒の曾孫木菟麻呂は、履軒の漢詩に秋成が和歌で和したものだと解釈している。筆跡などから、賛が書かれた時期は1800年前後だと思われる。履軒の詩を書き下すと「悲しきかな秋一幅、薄暮の声の聞くがごとし。誰か其れ鶉居する者、独り鶉の情を知らんや(もの悲しいなあ、秋にふさわしい一幅の画を見ると、薄暮に鶉の鳴く声が聞こえるようだ。どうして鶉居(不常住)するものだけが、鶉の情を知っているだろうか、いや誰でもこの画を見ればその気持ちがわかるだろう)」。一方秋成の歌は、「むすぶよりあれのみまさるくさの庵をうづらのとことなしやはてなむ(ここにすみかとして構えて以来、荒れ放題のこの草の庵を、最後には鶉の住みかとしてしまうだろうか)」。実は秋成も履軒も引っ越し魔であり、常住しない習性の鶉に自らを重ねているのである。秋成には「鶉居」の号があるくらいだ。この合賛は犬猿の仲だと思われた二人が実は文雅の友であったことを証するものである。