根本に鋭く迫り、儒教批判で破門経験
富永仲基は懐徳堂において、若くして抜きん出た秀才であり天才だったと私は思う。ただ、一度は懐徳堂を破門されたという。懐徳堂を創設した五同志の一人である道明寺屋吉左衛門(芳春)の三男として生まれたが、父の師匠・三宅石庵の怒りを買っての破門だと言われる。それもこれも、頭がよすぎたせいではないかと、私は想像する。弱冠十五~十六歳の頃、儒教を批判した『説蔽(せつへい)』を著し、石庵の怒りにつながった。
正徳五(1715)年に生まれた仲基は病弱で、満三十一歳で亡くなる。直前に娘の栄を三歳で亡くしたという苦しみもあった。実は私も娘を亡くしている。「逆縁」というのは、人生においてこれ以上の苦しみはないと思う。それが分かって生きている。それ故なのかどうか、仲基の思想には、あらゆる世の中のしがらみを断ち切る「クールさ」が充満している。
本当のところは何なのか、それが知りたいという探究心と共に、仏教論にしても、言語論・音楽論にしても、すべての世の不条理や苦しみのあらゆる根本は何なのかと鋭く迫る。そこには、既存の枠に捉われない仲基自身の冷徹な眼がある。そして、一番の苦しみを知っている者の優しさで「本質」を掬い上げる。
仲基の代表作である『出定後語』には、あらゆる仏教の経典は釈迦入滅後に弟子たちが「編集・加筆」したものであって、オリジナルではないと書かれている。そういう説を「加上」という。いまでこそ当たり前と思われるが、江戸時代に比較文化論的に論考しているのは、幼い頃より儒教や道教から、あらゆる経典を読破していた天才仲基にこそ構築できた思想である。それゆえ『出定後語』は大乗非仏説を学術的に言った最初の書であるとされている。
精神生かすべく「21世紀懐徳堂」創設
大阪大学の第十六代総長であった哲学者の鷲田清一氏が、総長就任と同時期の2008年に創設された「大阪大学21世紀懐徳堂」。この組織は、江戸時代の「懐徳堂」の精神を現代に活かそうというものである。
その設立に、仲基の思想というか考え方が非常に色濃く反映していると考えられる。もちろん、懐徳堂自身、「鵺学問」といわれた学際を自由に横断する学問であったからこそ、現代の「文理融合」や「超領域」といった、自由な学問の仕方が大阪大学へと存分に受け継がれている。大阪大学21世紀懐徳堂では学問が「象牙の塔」に籠ることなく、臨床的に社会へ学問を運ぶべきだと考え、さまざまなイベントが、社会へ向けて発信されている。
「誠の道」求め、学問の自由を究める
懐徳堂の学主であった中井竹山は『学校の衰えは、世の衰ふる基』(『草茅危言』)と言った。経済や政治に左右されることなく、学問は世の真実を探求するものであって欲しい。仲基も言っている『もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよき事を行うを、誠の道という』(『翁の文』)。真理は簡潔なものの中にあるのだと彼は主張する。性善説であろうが性悪説であろうが、「誠の道」を行えばいいのだという。
学問は自由であらねばならない。そのためには「加上」によって悪しき編集されたものに影響されず、真実の本質を見据えていかねばならないと思う。 いま、マスメディアやさまざまな情報発信で行われていることに、どれだけの真実性があるのだろう。また、その真実性をどれだけみんなが見ているのだろう。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に「大事なことは目に見えない」という言葉がある。世俗の人には見えない究極の真実。富永仲基は300年前に、そのことを見据えていた。私にとっての『推しの王子様』、それは富永仲基である。