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懐徳堂300周年記念コラム

COLUMN
懐徳堂 私の”推し”

第2回「中井竹山」

中井竹山
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第四代学主、未来を見通す力で人のため社会のために
実学的姿勢を重視、大胆な施策を提起

大阪大学名誉教授(中国哲学専攻)
湯浅邦弘

大井川に橋を架ける

「浪華八百八橋」。大阪は橋の多い町です。社会生活にとって橋は不可欠のインフラで、古代のヨーロッパでも中国でも盛んに架橋工事が行われました。それを担ったのは為政者だけではなく、むしろ聖職者や僧侶でした。仏教では、橋を架けることは、迷い多きこちら側「此岸」から、悟りの境地「彼岸」に多くの人を渡すための功徳と考えられていたのです。

その形や大きさはさまざまです。単純な木橋もあれば、長崎に伝わった眼鏡橋もあり、またゴッホが描いたような跳ね橋もありました。現在では、レインボーブリッジや明石海峡大橋のような巨大な吊り橋もあります。これらによって私たちの生活は、便利に豊かになっています。

ところが、江戸時代には、意図的に橋を架けない場合がありました。その代表は静岡の大井川です。船の渡しも禁止され、人足に頼った渡河だけが許されていて、雨によって増水すると何日でも川留めとなりました。これは江戸を守るための政治的・軍事的配慮であったとされていますが、国家経済や物流の観点からは大きな支障になっていました。

そうした時、大阪学問所「懐徳堂」の第四代学主・中井竹山(1730~1804)は、大井川に架橋すべきであると大胆な提言を行っています。その工法や工期、総経費、資材となる石の調達などを説き、さらには、後世の水害に備えて、架橋の経緯を刻んだ石碑の建立まで提案しています。

当時の漢学者、特に大阪懐徳堂の学者たちは、実学的傾向を持っていました。漢文の勉学を通じて、世のため人のために役立つ仕事をしたいと考えていたのです。

「越すに越されぬ」大井川に長い木橋が架けられたのは、ようやく明治時代になってからです。竹山は、その合理的精神で、はるかな未来を見通していたのです。

中井竹山肖像画
中井竹山肖像画(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)
寛政10年(1797)、懐徳堂第四代学主中井竹山晩年の姿を大阪の画家中井藍江が描いたもの

「一世一元の制」を提言

同じように、竹山の提言が後に実現し、現代社会にも大きな影響を与えたものとして、一世一元の制と学校制度の普及があります。

明治・大正・昭和・平成・令和と、今では一世一元は当然のこととされていますが、江戸時代まではそうではありませんでした。大災害が起これば人心一新のために改元し、おめでたいことがあればまた改元するというありさまで、竹山の存命中には何と11もの年号があったのです。

これでは庶民生活は混乱します。「今はいったい、どういう年号の何年なのか」と。そこで竹山は、中国の明の永楽帝以降、一世一元が定着していることを念頭に置いて、これを提言したのです。実現するのは、これまた明治時代になってからです。

全国津々浦々に学校を

らに竹山は、「懐徳堂を江戸の昌平坂学問所と並ぶ官立大学にしたい」と願っていました。そうした実力が、大阪学問所には充分あったのです。と同時に、竹山は全国の主要都市にはすべて学校を建設すべきであると提唱しています。教育は国家百年の計、全国民を対象とする教育が普及しなければ国家の繁栄はないと、考えていたのです。明治5年に学制が施行され、竹山の理念はようやく実現に至りました。

あらゆる学問は、その意義を見失ってはなりません。人のため社会のためにどのような貢献をするのか。彼方に光を放つような中井竹山の眼力と提言は、今も私たちに問いかけているのです。

=第3回は3月下旬ごろ掲載予定。

(参考文献)
・湯浅邦弘編著『増補改訂版懐徳堂事典』(大阪大学出版会)
・湯浅邦弘『懐徳堂の至宝─大阪の「美」と「学問」をたどる─』(大阪大学出版会)

草茅危言
『草茅危言』(そうぼうきげん)(大阪大学懐徳堂文庫所蔵)
老中首座松平定信の求めに応じて中井竹山が執筆した経世策。政治・経済・外交・文化・教育など多方面にわたる貴重な提言が含まれている。